不倫と霊園と兄
---------------------------------------------------------------------------------
「……何でここにいるの?」
掠れた声で呟き、泣きはらした無様な顔で睨み上げると、男は困ったように汗で濡れた髪を掻いた。
「何で、って……お前の兄貴だからかな」
答えになっていないと怒鳴ってやりたかったけど、泣きはらした目元が痛くて気が乗らなかった。
「……馬鹿じゃないの……」
男に向けた言葉ではないけれど、誤解のある言い方に男がその言葉をどうとるかなんて分かりきっていた。でもそれもどうでも良かった。私はもう数時間も前から、泣きながら自分にそう言い続けていたのだ。馬鹿じゃないの。不倫を扱ったテレビドラマを見てそう言っていた頃。絶対妻子のある男なんて好きにならない。だって最終的に男は妻と子供をとるんだもの。不倫なんて、馬鹿みたい。万が一相手が自分を選んでくれても、その先に待っているのが幸せな生活とは思えない。だから不倫なんて絶対にしない。そう思っていたのに、見事に泥沼に嵌ってしまった愚かな自分。
馬鹿じゃないの?
分かりきっていた破局の時に相手の横面を殴ってやることもできず、人気のない場所を選んで膝を抱え、1人で泣きはらすなんて。
「やっぱり、俺は妻と子供を愛しているんだ」
じゃあ、私は一体なんだったのだろう。私に愛していると言ったのは。曖昧なまま終わらせるなら、いっそ遊びだったのだと嘲ってくれた方が優しかったのに。気遣いのできない馬鹿な男。そしてそんな男に惚れた私はもっと馬鹿だった。
親に何も言わずに夜中までこんな所で泣いて、帰ってこなかったら心配する親だって分かっているのに。家を出て一人で暮らしている兄まで駆り出して。
「ほら」
また雨が降り出しそうな目に、兄の背中が飛び込んできた。膝を抱えて座り込む私の前に、屈んだ兄の背がいっぱいに映る。その手が後ろ向きに私を呼ぶ。動きたくなかった私は、その広い背に逆らいがたい魅力を感じて手を伸ばした。麻のロングスカートにサンダル履き。そんな格好で背負われるなんて普通はしないけれど、良いのだ。今は夜中で、私は普通の状態ではないのだから。
兄の背に乗ると、少し汗臭い。腕を後ろ側から肩を通って前に垂らすと、兄は身を揺すって立ち上がった。緩められたネクタイがぶらぶら揺れて、前に回した私の手に当たる。
自分で歩くリズムとは違う調子で揺られながら、思い出すのは最後に見たあの男の顔ばかり。そんな私の心を見透かすように、私を背負った兄が呟いた。
「そいつ、俺が殴ってきてやろうか」
ドラマでは私を背負うのも、こんな台詞をくれるのも、不倫をしている私を影から心配してずっと見てくれていた色男のはず。そして私はその人に新しい恋をする。でも現実はそんな風にはいかないものなのだ。私は破れた恋にギタギタに叩きのめされていて、次の恋へは当分移れそうにない。私を背負う男は、私を愛してくれてはいるのだろうけれど、恋人というポジションには一生納まらない男。
「彼、空手の有段者だけど」
「……俺が囮になってお前が殴るっているのは?」
それは良い。未練といえばあの面を殴れなかったことくらいで、後は強い自己嫌悪だけだから。
「ねぇ……どうしてあそこが分かったの?」
朝まで一人、あそこで泣いているのだと思っていたのに。兄が迎えに来るなんて思ってもいなかった。そして泣いている理由も聞かずに失恋だと察するなんて。
「兄は偉大なんだよ」
年は離れていて、特別仲が良いというわけでもなく、独立してからは月数回顔を見合わせればましという程度の間柄。それなのに何も言わなくても、何も訊かないで分かってくれるなんて。確かに兄は偉大だ。これでももう少し顔がよければブラコンになっていたかもな、と私は思う。それも良い。いつの間にか、あの男の顔は私の涙腺を刺激しなくなっていた。
一歩、一歩が大きなリズム。時折立ち止まっては、体を揺すって私を持ち上げる。早く帰って、父さんと母さんを安心させてやろう。そして汗を掻きながら、息を切らせて私を探してくれた兄には、ビールでも買って飲ませてやろう。何もかも忘れたと笑えるようになるにはまだ少しかかるけど、あの男のために流す涙はこれきりにしよう。
「今度泣くときは、もっと別の場所にしておけよ」
了解。夜の霊園は誰も来なくて静かで良かったけれど、もう兄に見つかってしまったし、失恋で泣く場所としてはあまりロマンティックではないと私も思っていたのだ。霊園でなくても、どこで泣いていても、兄は私を見つけてくれるだろうか。ちょっと卑怯な思いが私の胸に湧き上がる。
「……たまにはアパートに遊びに来い」
慰めのつもりか、それとも家を出てから少しも会いに来ない妹に、本当に寂しさを感じていたのか。そんなことも分からないなんて、兄の偉大さに比べて妹は何て馬鹿なのだろう。返事の代わりに、前に垂らした腕に力を込めて、後ろから兄を抱きしめた。馬鹿な妹でごめんなさい。でも、馬鹿な子ほど可愛いと昔から言うでしょう? だから諦めて、本当に良い人が見つかるまでは、妹の面倒をみてやって下さい。
そんなことを思いながら抱きしめて、密着した体。ドキドキはしないけれど、ほんわりとした甘さがある。可哀想に、ドラマのヒロインは知らないのだろう。すぐに現れた新しい恋人より、ずっと長く自分を見ていてくれた男の背が、こんなに大きく温かいなんて。
私の兄は本当に偉大なのです。